20211023 多摩地区表象文化論・动画批評研究会 令和3年秋例会「 東アジア圏におけるゼロ年代文化受容を振り返る」

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http://ptix.at/HtC9NW

 

(※ 大幅に時間を延長してしまいましたが、盛会ののち無事終了いたしました。参加くださったみなさま、大変ありがとうございました。)

 

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 きたる2021/10/23(Sat) 20:00-22:00(目安)、村上裕一さん*、紅茶泡海苔さん*、田中大裕さん*ほか、前回もご登壇くださったてらまっとさん(@teramat)に加え、新たに安原まひろさん(@MahirOrihaM)など本テーマに精通したみなさまをお招きし、多摩地区表象文化論・动画批評研究会(令和3年第二回・2021秋例会)を開催いたします。
 ※ 村上裕一さん(@murakami_kun):批評家・編集者・文筆家。今回の会では「本邦におけるゼロ年代文化・ゼロ年代批評」の振り返りをいただく予定です。
 ※ 紅茶泡海苔さん(王琼海さん @fishersonic):アニメ史・表象文化論研究者。今回の会では「主に中国におけるゼロ年代文化受容」についての提題・コメントをいただく予定です。
 ※ 田中大裕さん(DIESKE @diecoo1025):映画 / アニメーション研究者。今回の会では、総合コメント・質問をいただく予定です。
 
 zoom使用のためセミクローズド方式・半顕名とはなりますが、出入り自由・無料ですので、奮ってご参加ください。
 ※ 開催地における感染対策方針により、参加者席はオンライン開催のみとなりました。申し訳ございません。
 zoomのURLは下記のとおりです。
 ミーティングID: 831 6863 5445
 https://u-tokyo-ac-jp.zoom.us/j/83168635445
 ※ 後日のYoutubeLiveなどでの再配信はございません。
 ※ 資料について:資料は別途、講演者ごとの方針に従い、配布・画面共有いたします。


【タイトルについての補足】

 タイトルに掲げたテーマ「東アジア圏におけるゼロ年代文化受容」は、本邦のゼロ年代における諸文化が、その後、時間的にみて現在までのタテ方向に加え、空間的に見て東アジア圏のヨコ方向へといかに広がり、繋がっていったのかについて、改めて検討したいという関心に由来します。

(1)背景の一つには、東アジア圏における(特に小説文化に端を発する)ゼロ年代文化の受容と独自の展開があったことです。登壇者の一人・紅茶泡海苔さん(王琼海さん)は中国出身の研究者であり、アニメ史を研究するとともにゼロ年代文化についても既に数多く文章を書かれています。当日は、本邦とは別のルートを辿ったオルタナティブゼロ年代当事者としての声を聞くことができることを期待しています。
(邦語で読める補助線となる文献としては、前回の『羅小黒戦記』についてのたまけん例会(2021/07)でも紹介した(中国における)許紀霖『普遍的価値を求める』や(台湾における)呉叡人『台湾、あるいは孤立無援の島の思想』など各地で独自の思想潮流を作り上げてきた諸文献、韓国での受容を示すものとして2012/2018に行われた東浩紀講演録『哲学の誤配』、あるいはこの2021年9月に発刊された福嶋亮大『ハロー、ユーラシア 21世紀「中華」圏の政治思想』などが参考になるものと思われます。)

(2)背景の二つ目として、昨今、本邦内部においてもゼロ年代文化について世代を跨いだ着目が再興しているように見える点があげられます。
 観測の限りですが、日々熱心に開催されている(広く)ゼロ年代文化関連と言えるだろう2020年代批評ラインを探る(登壇者・てらまっとさんらも参加されているtwitterスペース群(感傷マゾ、青春ヘラ等々)は、かつてゼロ年代文化を支えていたUstream的な文化を思い起こさせますが、しかしこれらスペースを聞く際には同時に、(深夜アニメ・劇場アニメを問わず)本邦のゼロ年代文化で特に議論対象として取り上げられてきたアニメ文化を取り巻く環境変化のゼロ年代2020年代現在の差異、あるいは批評という営為をめぐるかつての高揚と現在の沈静についても考えざるをえません。この点について、ゼロ年代批評の一つの到達点である『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』を著した登壇者・村上裕一さんほか登壇者の皆さんから、ゼロ年代文化及び現在に至る文化・環境についてご意見を頂戴できればと思っています。
 なお昨今の情勢に少しだけ目のやり場をうつしますと、目下の表現規制を巡る議論の中でも、かつてのゼロ年代後半に東京都青少年健全育成条例改正で議論を巻き起こした「非実在青少年」問題を思い起こさせる形で、2021年現在「非実在児童ポルノ」という新たな装いで議論を引き起こしている点も、大変興味深いように思われます。これらの問題は(当時と2021年現在とでは)背景も思想も異なるものであることは承知しつつも、現在の情報環境を念頭におけば、特定コンテンツの制作者-受容者の閉じた回路には常に穴があいており、受容に関する背景を異にする(ファンコミュニティ以外の)人々に容易に届き、さらには国境をこえたハレーションを引き起こすだろうことは想像に難くありません。
 この点は、前回のたまけん例会(2021/07)でお呼びした『超空気支配社会』の著者・辻田真佐憲さんが提示くださった「21世紀政治と文化」図式(※下右図を参照)であり、そしてかつて村上裕一さんが書かれた『ネトウヨ化する日本』とも通ずるところがあるように思います)。特に、最後に例としてあげた国境をこえたハレーションの点では、中国におけるエンタメ規制に関する広電総局通知報道事業禁止法案の動向等も、2020年代の今や対岸の火事というにはあまりにも「近い」現象となっているように見受けられます。


 もちろんここで言いたいのは、そういったハレーションが厳然として存在する/可視化される環境である以上、制作者・受容者の「責任」を問うことは当然である、あるいは答責が無条件に正当化される、ということでは全くありません。応答が重要であることは前提としつつも、それが制作環境・受容環境に対して持つ萎縮的・消極的影響も踏まえて、多様な文化が生成され接続される条件としての環境や共同体を、ゼロ年代文化は陰に陽に目指したはずではなかったでしょうか。
 こうした点について、皆さんの考えるゼロ年代についての率直な語りを拝聴したいと考えています。
 
(3)最後に、本邦における「ゼロ年代批評」シーンがどのような点で特殊なものであったか、についてもこの機に振り返りたいと考えています。2010年代初頭に東浩紀さんによって提唱された批評-観客形成の観念的な連合の重要性は本会でも大いに参考にさせていただいておりますところ、他方でゼロ年代において本邦のゼロ年代批評が引きずっていた(あるいは現在まで伸びているかもしれない)ある種の「ホモソーシャル性」(その上記批評-観客形成との差異)については、2020年代の現在においてどのように向き合うことができるでしょうか?
 この点は、上記背景(1)、背景(2)で確認した二つとは異なり、ゼロ年代批評についての外在的な語りではありますが、2020年代の現在において、ゼロ年代批評における今なお最良と呼びうる部分とその暗部とをわかつためには避けられないものとして、ここに備忘的に記しておきたく思います。
 (ポスターの題材としたVtuber文化の中でも(兎田ぺこらさんと同じくホロライブ所属であった)桐生ココさん引退経緯(※資本主義的な「運営の論理」が、言語ごとにカスタマイズされた二枚舌戦略の失敗によって純粋形で露出した例)や、上記辻田さんの図式の整理にも現れているいわゆる「キャンセルカルチャー」のこともここでは連想されるかもしれません。)

 このように、今回の秋例会は事務局側で設定したテーマ群は非常に緩やかなものであり、登壇者各人の観察や(連想的な)語りを持ち寄る場としたいと考えております。持ち寄りと共有が先、総括は後、ということを目指しておりますので、一般の参加者の方々におかれましてはぜひお手柔らかにお聞きくださいましたら幸いです。